150号
2002年6月号


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祝・『端島新聞』150号

 
 ↑季節感あふれる、かつての『端島新聞』題字欄

 昭和54年に創刊された「端島新聞」がこのたび通巻150号に達しました。これもひとえに、平素より端島の子どもたちを見守り、端島を応援し、端島新聞を楽しみにしてくださっている多くの皆様方のおかげであると心より感謝いたしております。
 このたびの端島新聞150号到達を記念いたしまして、端島新聞創刊当時本校に勤務しておられた木元清人校長先生、森山梭一先生にお言葉を寄せていただきました。
 お二人ともお忙しい中原稿執筆を快く引き受けていただき、どうもありがとうございました。

端島は心のふるさと  木 元 清 人

昭和54年度集合写真
(前列右端に木元校長先生)
 私は、昭和52年4月から昭和56年3月まで端島小中学校に勤務させていただきました。その間、島民の皆様方から格別のご懇情を賜り、私にとりましては端島は第二の故郷であります。さて、この度、「端島新聞」の発刊150号を迎えられるとのこと、わがことのごとく喜んでおります。これを機に寄稿の依頼をいただきまして光栄に存じます。
 今、私の手許に昭和54年4月号から昭和56年3月号までの月刊「端島新聞」が宝物のように大切に保存されております。
 当時の端島小中学校においては新しく着任された森山梭一先生の発案により、昭和54年4月20日に「端島新聞」第一号が産声を上げております。その頃、端島では人口も次第に減少し、主産業の漁業も振るわず、このままでは端島に明るい未来はないという声が高まり、島を挙げて「ふるさとの未来を語る会」を設立し、自治会と学校とが一体となって、よりよい端島づくりの気運が盛り上がっているときでありました。端島自治会長の岡崎彦一氏は「発刊に寄せて」と題して次の一文を寄せておられます。

 −端島に生まれ育った皆さん、私達の故郷を大切にいたしましょう。遠い祖先が築き上げた島を、今回の「端島新聞」の発刊にあたり皆さんとの対話の機会を得て、将来の島づくりにつながるものと確信いたします−と。

 以来、「端島新聞」は島民の皆さんに明るい期待を投げかけ、島民と島外出身者たちとの心と心を結ぶ架け橋として取り組んでまいりました。とは申しましても新聞とは名のみにて、B4ガリ版刷りの1枚もので、内容も学校のニュースを中心に、島の行事、産業などを盛り込んだミニコミ的な要素が特徴で、一目で島のことがわかる程度できわめて素朴なものでありました。
 島内71世帯、島外50世帯を対象に配布いたしました。受け取られた皆さんからは「是非長く続けてほしい」という声が多く、島はじまって以来の新聞はとても人気がよく初期の目的が次第に深められてまいりました。
 私が離任してもう二十余年の歳月が流れようとしております。この新聞は次々と引き継がれ、ここに150号という輝かしい発刊を見るに至ったということは正に驚嘆で感謝の念でいっぱいであります。あらためて心からお慶び申しあげます。端島では閉校中の学校が開校され、新しい文化の灯が輝いております。毎号すばらしい内容、体裁の「端島新聞」を送っていただいてありがとうございます。

−空いっぱいに空があり、海いっぱいに海があるように、心いっぱいに愛をもって−

 端島の皆さん、そして端島小学校の躍進とご発展を祈念申しあげ、お祝いの詞といたします。


端島の3年間  森 山 梭 一 

 私が端島に赴任したのは昭和54年4月のこと。あのころを振り返ると思い出がいっぱいある。その内の幾つかを書いてみる。 

■端島新聞
 赴任して直ぐに学年新聞の形式で端島新聞を作ってみたが、生徒数が多い学年でも四名では新聞にもならない。島全部に配ったらと思い、全戸に配布することにした。この新聞を見た岡崎彦一自治会長が「先生、自治会から切手代は出すけえ、島外の端島人にも送付してくれんかね」と話を持って来られた。「輪転機を1回廻すのも10回廻すのも何ちゅうことはない。やったげるで」と浦浪さんと一緒に発送することにした。神戸に住む方からは「朝日や毎日などは銭を出しゃあ買えるが、この新聞は得難い」と高額な切手代を送ってこられたりと好評を博した。
 当時の内容は、
 ・東越さん宅崩壊、梅雨の長雨で
 ・ハマチ、フグの稚魚入荷(三上誠人PTA会長)
 ・宮本幾太郎さんの古教科書出る …等々。

■大相撲端島場所
 運動会の一種目として臨時に作った土俵で児童生徒全員が相撲をとる。それをラジオやTV同様私が力士名を呼ぶ。ヒロノヤマ(生徒名の一部)。
亀田三佐一さんが解説者になり、予想や結果についてマイクで話し合う。
「この力士は体は小さいが、力がありますけえ、あなどれんですよ」「今のはウッチャリでしょう。もつれた勝負が、いい勝負でしたねえ」どちらも相撲の技など十分に知らないのに、プロのようにふるまい、島民を喜ばせた。

■健康管理
 単身赴任している教員は自分で料理を作る。自宅から色々と持参してくるとはいえ、一週間は無理。亀田商店に入荷してもその日の内に直ぐ売り切れ。おまけに金曜日だから買っても意味がない。島民は自由に畑の物をとりなさいと言うが、略式の食事になる。
 島を散歩していたところ、みかんがなっているが、もぎ手がない畑がかなりある。理由を尋くと持ち主が離島してそのまま放置されているとのこと。早速亀田教諭が連絡をとり学校園とし、大島出身の茶木教諭が中心になり、みかん栽培を行った。実ったみかんは児童生徒でもぎ、毎日下校時にジュースにして飲むことに。浦浪さん宅にアロエが茂っているのに目をつけ、児童生徒に当番制で大根の葉や白菜など菜っ葉を持参させ、青汁としてコップに少しずつ全員が飲むことにした。最初はいやがっていた児童生徒もおいしいので大好評。特に教員からは好評であった。
 また、藤田養護教諭にお願いして1か月に1度は血圧測定を義務づけ、教員の健康をチェックするとともに、「病気が見つかったらいやじゃけえ」といやがる島民に無理矢理集会所に来てもらった。結果としては異常なしと聞き、好評で、一寸体の調子が悪いと保健室に自分から訪ねて来るまでになった。

■社会見学
昭和55年度社会見学〜岩国焼〜
(最後列右端に森山先生)
 島へ赴任してみると瀬戸内海の景色は四季、天候を問わず、どの時もすばらしい。思わずカメラを向けたくなる。思わぬ光景の時は授業を一寸やめてシャッターを切らしてもらった。それを現像してもらいにローズカメラ店へ行き、長尾光之店長と島の生活などを話す。長尾氏は「離れた島というだけで子どもがこんな不便な生活をするのは可哀想だ。私に何かやらせてください」と言うことで社会見学が実現した。
 1年目はバスを借り切り、保護者同伴で山パル、米軍基地、電報電話局などを見学した。2年目は黒島小中生も招き、米軍基地のマイクロバスを借り切り、興亜石油、市環境施設、岩国焼(右の写真)を見学した。
 また、長尾氏は各学年の雑誌を端島と黒島に私の転任後も送り続けたし、卒業生にはアルバムを贈呈してくださった。

■災害時臨時教室
 端島校の直ぐ近くに4人の先生の官舎、少し離れた所に校長住宅と女性教師の宿舎がある。昭和55年7月、長雨と豪雨とで岡崎卓二氏宅前の崖が崩れ、通学路を塞いだ。児童生徒は通学できないので急遽教員の各部屋で授業することに決定。各学年の生徒数が少ないのでこの時は大助かり。中学は教科制であるので日課にあわせて移動教室をする。「河本(中学校教頭)先生、次の授業をお願いします」といった調子。時には持参している菓子とお茶で休憩することもあった。
 また、島では陸地の生徒のように塾に行くことができない。「島から県立高校に合格者が出ないようでは島に帰ってこようと思う人に悪影響」だからと、各部屋や学校を使い、曜日を決めて夜補習を行い、実力を養った。このことは好結果を生んだし、私が離任するまで続いた。

■島民と詩吟
 島民が教員を見る眼は「3年過ぎたら帰るんじゃあないか。口先では良いことを言っていても腰は浮いている」と言った感じ。そこで私は「3年過ぎたら上がる。しかし、この3年間に島民に喜ばれることをして上がりたい。着任する先生は何か特技を持っておられる。それを学ぶことができる島民は幸せですよ」と教師にも島民にも働きかけたところ、木元清人校長が詩吟ができる。河本小学校教頭も「私でよければその役をやりましょう」と言うことで夜の勉強会が
始まった。言い出しっぺでもある私も参加した。島民も私も素人同士。声を張り上げるが迷調子。島民は「先生には近づけん間柄と思うとったが、こうして膝をつき合わせるとはうれしい。心が溶け合うの」と大受け。福島さんは「今までは結婚式に参列していても当てられにゃあええがと小もうなっちょったが、今頃は私に当ててくれんかと胸を張って出席できるようになった」と大喜び。式前日は定期船の中で教頭と並んで大声で練習する姿はとても爽快であった。

■端島の女(ひと)
 私が端島に赴任した時は土帰日来の生活であった。夕方5時の船に乗る。新港を出港する時は明るくても、端島に着く頃は夕暮れてくる。秋から冬にかけては船から見える端島は各家庭に灯が灯っている。街とは違い、ぽつんぽつんと灯が灯る感じである。センチな気持ちになるのは私だけではあるまい。その時フト浮かんだ詩が『端島の女(ひと)
である。作曲は同僚の金子教諭がしたが、現在は私の民謡の藤本秀規誉先生が編曲し歌っている。

   端島の女
       作詞 森山宸鑑(梭一)
       作曲 金子正二

  一  岩国離れ瀬戸八里
      霧にかすんだ島小島   
       船が呼びかう幸せを
        晴りゃ端島の女が立つ

           二  見壁岬に波やさし
               漁終え帰る船と船
                漁火ゆれて影二つ
                 端島娘の深情け

                   三  端島港に降る雨は
                       誰が流した涙やら
                        島で芽生えた愛と愛
                         なぜに離すか連絡船

 

 木元校長先生、森山先生のお言葉からは『端島新聞』創刊当初の熱意、端島への愛情がひしひしと伝わってまいります。
 歴代諸先生方の端島への愛情がいっぱい詰まった『端島新聞』。これまでの歴史を受け継いでいくことには大変な重責を感じますが、その歴史の一端に名を連ねられることは大きな誇りでもあります。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。


 TOPIX
同窓会だより 昭和38年度卒業生の巻
昭和38年度卒業生のみなさん(左)と卒業記念の柱時計(右)
「同窓会を開きました」
というメールが端島小学校に届きました。

 このたびメールをいただいたのは、現在大阪にお住まいの昭和38年度卒業生、重森キミエ(旧姓森岡)さんです。
 重森さんのお話によりますと、去る6月15日、岩国市内にて同窓会を催されたとのことです。岩本勝子さん、浦浪幸江さん、大森達雄さんの音頭で実現した「同窓会」だそうです。

…この日は15歳の中学生に戻り、最初の会場では、松原先生のピアノにあわせて校歌を2回歌いました。胸が熱くなり声になりませんでした。一人一人中学校を出て、今まで歩んできた道を話したり、笑ったり、涙したり、ほめたり、皆それぞれが人生を頑張って今こうして、元気に会えたことが嬉しく、話に花がさきました。時間の経つのも忘れ、最後にもう一度校歌を歌いました…
(重森さんのメールより)


 数十年を経た今も変わらぬ友情をうらやましく思いました。そして、再会を果たされたみなさんの喜びと心の絆にふれ、私たちも大変感動いたしました。

 実は、昭和38年度卒業生のみなさんの足跡は今も端島小学校に残されています。端島小学校玄関の正面の壁には大きな柱時計が掛かっています。時代を感じさせる重厚なフォルム。この柱時計は38年度卒業生の方々の卒業記念品です。時計の内側には卒業生のみなさんのお名前が書かれています。この柱時計は時を超えた今も正確な時を刻み、あたたかく深みのある鐘の音を聞かせてくれます。現在の端島っ子たちもこの柱時計の音をチャイムがわりに生活しています。時計の読み方もこの柱時計で覚えました。
 端島小学校にはふたりの児童しかいませんが、諸先輩方の足跡を追いかけながら成長しています。時折激励のメールをいただくこともあります。卒業して行かれた方々を「先輩」として強く意識できるのも、小さな学校ならではのよさではないでしょうか。
 願わくばこの子たちが、先輩方の変わらぬ友情と端島への愛情と共にこの柱時計を受け継いでいってくれればと思っています。
 これからも同窓会等の情報がございましたら学校の方までお寄せください。ご承諾をいただいたうえで、紹介をさせていただければと考えております。

スイカ育ってます
 端島菜園の小玉スイカが続々と大きくなっています。
 子どもたちと浦浪さんはスイカに「こだまくん」「たまこさん」なんてかわいい名前をつけてかわいがっています。「ベッカムさん」などはタイムリーなネーミングですよね。これらのスイカは6月下旬から7月上旬には食べられるということで、収穫祭も間近です。

6月の授業参観
 今月は国語の作文発表会を参観していただきました。子どもたちが自分の紹介したい「動物」を図鑑で調べ、紹介文を考えました。発表にはパソコンを使って資料を提示するなどずいぶん本格的なものとなり、子どもたちも満足のいく発表ができたようです。

 7月の行事予定

 ★4日(木)〜5日(金)
      自然教室・交流学習
     (小瀬小・柱島小と合同)

 ★12日(金)
      サメよけネット設置

 ★16日(火)
      社会見学(市内施設めぐり)

 ★18日(木)
      保護者懇談会

 ★19日(金)
      終業式



 編集後記 〜 潮騒
◆端島新聞今月号の一面最上段で過去の端島新聞で使われた「題字欄」を紹介しています。「端島新聞」という達筆に季節感あふれるカット。毎号手書きで作られていたようです。
◆そのカットもよく見てみると、書き手の小さな遊び心が随所に見られます。当時は毎号この題字を楽しみにしていた方もおられたことでしょう。
◆先日、家のパソコンが突然壊れました。そのときの自分のうろたえようといったら…何とか原因をつきとめ事なきを得たわけですが、自分がどれだけパソコンに依存しているかを思い知らされ憮然としてしまいました。
◆IT=情報技術の推進が叫ばれてすでに久しくなりました。教育の世界においてもパソコン等の情報機器ははなくてはならない存在となりつつあります。いや、本当に便利なのです。今こうしてこの新聞を作っているのも、学校のホームページを作ることができるのも、多くの人々から励ましのメールをいただけるのも、このパソコンがあるからこそです。
◆ところが、かつては人間の事務処理効率を上げるためのサポート役に過ぎなかったパソコンが飛躍的な進化を遂げ、人間のコミュニケーションにまで多大な影響を与えるようになってきました。機械の便利さを喜んでいるうちはまだしも、その機械がなければ生きていけないという時がやってくるのかと思うと空恐ろしい気もします。
◆子どもたちにはパソコンの学習を進める一方で、手紙や作文もどんどん書かせています。「上手な文章」を書くという内容的なテクニックばかりを身につけるのではなく、丁寧で読みやすい字を書くこと、正しい便箋の使い方などを学ぶこともまた、相手を思いやることなのだということを子どもたちには伝えていきたいと思っています。