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| 陽は沈み、また昇る。 そして歴史もまた、繰り返す。 |
| 明治15年頃 | 浜田光治・亀田傳兵衛両氏宅にて「ひかんこ」(子分の意)を教授 |
| 20年 | 玖珂郡柱島小学校簡易科を設ける |
| 23年 | 情島の平尾宗作氏、柱島の富野喜吉、寺岡仁助の両氏を助教として、島原弥之助宅で教授する |
| 30年 | 大森清助氏跡校舎新築 |
| 33年 | 豪雨のため土砂により崩壊、同年6月より37年1月まで浜本嘉正氏の部屋借用 |
| 34年 | 柱島尋常小学校端島分教場となる |
| 37年 | 瓦葺校舎改築落成 |
| 大正 4年 | 校舎改築(島民勤労奉仕)裁縫科専科教員を置く |
| 昭和 2年 | 玖珂郡麻里布村立柱島小学校となり、本校3学級、端島分教場2学級、黒島分教場1学級計6学級、職員数8名となる |
| 4年 | 麻里布第三尋常高等小学校端島分教場と称す |
| 12年 | 端島分教場起工式(建築には青年団全員協力) |
| 15年 | 岩国市制施行により、岩国市立麻里布第三尋常小学校となる |
| 16年 | 勅令148号を以て交付されたため、4月1日より岩国市立柱島国民学校となり、岩国市立柱島国民学校端島分教場と称す |
| 19年 | 端島・黒島分校に高等科を新設 |
| 戦争中の話 | 「島の空襲はなぜ」(亀田世津子「岩国空襲の記録」掲載) |
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戦争中、島の男達は次々に戦場にかり出されて、あとは年寄りと女・子供ばかりでした。島の人々は勤勉で、朝早くから夕方は太陽が沈んだ後までよく働きました。 島の上空を飛ぶB29を木の陰や船端に身を寄せて、それをにらむこともありました。海中に落下する爆弾のすごい音!島民は威嚇されても、被害を受けても、戦いに勝つことを信じて、がんばっていました。 島の周辺には百隻に近い軍艦が停泊していたと年寄りは語っています。島の小高い丘には高射砲陣地が予定されていて、実際には実現しないうちに終戦となったのですが、島が爆撃の目標になった理由は何でしょう。 海軍の軍艦が数多く停泊していた為なのか、軍人が島に上陸していた為なのか、それとも高射砲陣地の予定を知っていたのでしょうか? 低空飛行で掃射する時は、敵機の兵士の顔が見えるほどであったと言います。魔の7月24日(旧6月17日)は宮島様の祭りの日でした。島の人々は集まって自家製豆腐を作って宮ごもりをするのです。 年一回、人々が楽しみにしていたその日は、朝から編隊がたびたび上空を旋回していて不穏でした。ちょうど昼前頃、集落の中央部、人々の集まっている所に大型爆弾が落ちてきて、上を下への大騒ぎとなりました。ご馳走を食べて歓談したり、お祈りをしたりするどころではありません。爆風で飛ばされたり、直撃されたり、今まで体験したことのない痛恨の日となりました。子供6人、大人3人死亡。吹き飛ばされて大けがをした人3人でした。・・ |
| 昭和35年度 | 柱島小学校端島分校・柱島中学校端島分校を廃止し、独立校として発足。集会室兼特別教室竣工。テレビ受像機設置(県、市よりへき地校へ)夜間島民一般公開。開校式を挙行。 |
| 36年度 | 校章、校歌制定。新水道設置。給水開始。ピアノ購入。 |
| 38年度 | 学校職員住宅新設。旧職員住宅への水道設備、浴場新設、便所改造 |
| 39年度 | 各教室に照明施設完備(中電) |
| 40年度 | ミルク給食開始。運動場新設 |
| 41年度 | パン、ミルク給食開始(国庫負担) |
| 42年度 | 水道施設に滅菌装置付きポンプ、タンク設置 |
| 43年度 | 教員住宅2棟完成。脱脂粉乳をやめ、生乳給食に切り替える。自家水道を簡易水道に切り替える。 |
| 47年度 | 小学生児童減少に伴い、2学級編成となる。電話設置(県費) |
| 48年度 | 県費養護教諭配置。新校舎移設用地の買収完了 |
| 49年度 | 新校舎改築期成同盟会結成、陳情 |
| 51年度 | 教員住宅(一棟二階建4戸)落成。岩国柱島海運KK、高速艇就航 |
| 52年度 | 中学校へテレビ設置 |
| 53年度 | 「端島の教育を語る会」開催。新校舎敷地調査。 |
| 54年度 | 新校舎建築土地造成完了 |
| 55年度 | 旧校舎とのお別れ式。新校舎竣工式(56.3.24) |
| 校舎の解体・新築 | 「かの熱誠は永久の舵」より抜粋(木元清人「忘れじの母校」掲載) |
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「端島教育はどうあればよいか」「端島の活性化はどうすればよいか」と学校はもちろん島民一人一人に問いかけ、対応が迫られたものです。時の自治会長、岡崎彦一氏やPTA会長、三上誠人氏は敢然と立ち上がり、「端島の教育を語る会」を発足させて積極的に取り組んでいました。 苦節4年、ついに端島小中学校の老旧校舎を解体して、端島で一番広い見壁の地に防衛庁予算による新校舎を建設するという朗報を手にすることができました。 昭和55年10月5日に旧校舎最後の運動会が開催され、狭いグランドは割れんばかりの盛会でした。また、11月には、旧校舎最後の学習発表会があり、児童、生徒も大ハッスルし、観覧者の中には涙を流される人もあったほどでした。・・・ |
| 昭和56年度 | 三島児童生徒合同教育キャンプ実施 |
| 57年度 | 運動場の真砂土搬入 |
| 58年度 | 桜の苗木植え込み(25本) |
| 59年度 | 岩国市小中学校音楽発表会に初出場 |
| 60年度 | 花壇コンクール奨励賞受賞 |
| 61年度 | 飛び込み台新規作成。花壇コンクール県奨励賞受賞。スキー教室(小)実施。百葉箱児童生徒で作成。 |
| 62年度 | 花いっぱい運動市教育長賞受賞 |
| 63年度 | 端島小学校休校となる。科学研究発表県奨励賞受賞 |
| 平成元年度 | 花いっぱいコンクール県優秀賞受賞。学校存続問題懇談会開催。 |
| 2年度 | 花壇コンクール市長賞受賞。花いっぱい運動県教育長賞受賞。 「忘れじの母校」作成。 休校式 |
| 休校 | 「端島よ、とこしえに」より抜粋(徳本美智恵「忘れじの母校」掲載) |
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・・・島にとっての学校、それは「心のよりどころ」「心の灯」となるものであり、過疎化、高齢化すればするほど、大きな意味を帯びて参ります。なんとしても後続生徒を迎えたい・・・・・・その一念で衆知を集め、自治会、岩国教育委員会、学校の三者間で検討、協議を重ね、端島をアピールするイベントも開催して参りました。悲願天に通じず、今世紀後半端島にも打ち寄せました激動の波が、いかに大きいものであるかを思い知るばかりでした。 わびしい時のみ深く流れました。・・・ 「端島よ、とこしえに」ふるさとを彩る人情、生きざま、伝統行事、そして母校ととこしえに継承される新たなる波、その春の巡りの早からんことを。 平成3年3月。 |
| 平成12年4月 | 岩国市立端島小学校開校式(4月8日) |