本ページのスペースをお借りして、一言ご挨拶申し上げます。
 このたびの人事異動により、私は、山口市の良城小学校に転任することになりました。
 端島小学校在任中は、公私にわたり温かいご支援ご協力を賜り誠にありがとうございました。厚くお礼申し上げます。
 端島は、豊かな自然はもとより、島の方々の穏やかな心に包まれていました。端島で過ごせた3年間は、何にも代えられない財産となりました。「大切なことは目には見えない」…その目に見えない大切なことを多く教えたいただきました。
 あと数日で私はこの島を後にしますが、それまでの間、私の胸に残っていることなどをこの場をお借りし、回想録として記しておきたいと思います。



・・・・岩国市より瀬戸内海を望むこと、約20q。そこに端島という小さな島があります。その小さな島には小さな小学校があり、ふたりの子どもたちが毎日を元気に過ごしています。
 そんな端島で私は3年間を過ごしてきました。



島に学校がよみがえった春

 端島の学校は少子化のあおりを受け、平成2年の春を最後にその歴史が閉じられたかに思われました。しかし、その後端島には新しい命が生まれ(しかも同じ年にふたりという奇蹟!)、その子たちはすくすくと成長し、止まっていた端島小学校の時間が再び動き出す日が近づいていました。
 そのころ私は岩国市立通津小学校に勤務していました。へき地への転任、離島への転任を希望していた私は、端島小学校へという話をいただき、その場で決断しました。自分が教職を志したときから夢に描いていたへき地での教育、離島での教育に携われるという喜び。そして何よりも、一度止まった時間を再び動かすという歴史的瞬間に立ち会えることに大きな興奮を覚えました。
 私と同じく、いやそれ以上に新しい歴史を創造することに燃えておられた恒松徹生校長先生といっしょに、着任する端島を初めて訪れたのは平成12年、とてもよく晴れた4月2日のことでした。
 海は凪ぎ、風はおだやかです。陽光降り注ぐ港に降り立ったとき、山の斜面や道路沿いに連なる桜の木々に目を奪われました。
「ああ、この島は『桜の島』なんだな。」
 ぼんやりとそんなことを考えていると、あちらの方から自転車に乗って元気に走ってくるふたりの子どもたちの姿が。
 思えばこれが私と「ふたり」との最初の出会いでした。
 その日は保護者であり自治会長でもある亀田春生さんの漁船で端島の周りをグルリと案内していただきました。船瀬海岸を初めて見たときのあの感動。決して忘れられるものではありません。どこまでも澄んで青く光る海。船の下を大きなチヌの大群がサーッと横切っていきました。「ありゃ、こりゃあすぐにとって返してここに網を張らんにゃいけんのぅ」と冗談交じりに話しておられた亀田さんの笑顔。まるで昨日のことのように覚えています。
 その翌日にはこちらに引っ越してきました。ところが私の性分なのでしょう、とんだ大荷物を抱えてきてしまいました。お手伝いしていただいた島のみなさんには大変なご迷惑をおかけしてしまい、「なんとまあ、よーけあるのう」と笑われてしまったほどです。
私はとにかく一日でも早く島での生活に慣れたいと思っていました。そうでなければ再開校という大事な局面を迎えた本校で勤務に専念できないだろうと思ったからです。自分の足場がしっかりしていなければみなさんにご迷惑をかけるばかりですから。
 おかげさまで何の不自由を感じることもなく島での生活をスタートすることができました。
 家から学校まで続く海岸道路を、さわやかな風を受けながら自転車で走る朝。純粋で個性豊かな子どもたちとふれあえる喜び。島ならではの出来事に直面しては驚く毎日。そして、こんな若輩者の私を「先生」といってとても親切にしてくださる端島のみなさん。
 私は「この島にきて本当によかった」と心の底から思いました。ふたりの子どもたちのため、学校のため、そして端島のために何とかがんばっていこうと決意した、3年前の春でした。




端島での生活

 端島での生活ではユニークな思い出がたくさんできました。

 私は引っ越してきたその日に何を思ったのか、軽トラックを借りて島内一周道路とやらをまわってみようと試みました。ところが島の道路というのは独特で狭い上に、鋭角のカープも多々あります。何と私は脱輪という失態を演じてしまいました。これだけならまだしも、そのトラックを一緒に抱えてくださったのはすぐ近くを歩いておられたふたりのおばあちゃん(!)でした。
「ありゃまあ先生、そりゃあせんないことになったのぅ。どれ持ち上げようわい」
 いや、無理しないでくださいと言おうと思ったのですが、軽々と軽トラックの後輪部分を持ち上げるおばあちゃんたちを見て唖然としました。みなさん本当にお元気でいらっしゃる。ケラケラと笑っておられるふたりのおばあちゃんの前で私は、ただただ恐縮するしかありませんでした。あのときのことを思い出すと今でも赤面してしまいます(笑)。

 赤面といえば恥ずかしい思い出がもう一つ。
 私が赴任してきた当時は亀田商店がまだ簡易郵便局を兼ねておられて、CD(キャッシュディスペンサー)があったのです。すごいなあと驚きました。ただしこれは町中の無人CDとはちょっと違っていて、まず自分が引き出したいだけの金額を紙に書いてお店の人に渡します。するとコードのついた計算機のようなテンキーを渡していただけるので、自分の暗証番号を打ち込みます。それからガシャンガシャンと大きな機械が動いて精算が始まるのですが…「すみません、先生。どうもご口座の中のお金が不足しているようなんですが」と大変恐縮されながら言われました。えっ?と思って確かめてみると、自分が貯金している以上の金額を引き出そうとしていたのです。このときの恥ずかしいことといったら(>_<)・・・・無人CDであれば何とかごまかせたものを。有人CDならではのハプニングでした。

 夏には泳いで泳いで泳ぎまくりました。足ヒレとシュノーケルを使って端島をおよそ半周したことがありますが、さすがに二度と挑戦しようと思いませんでした。夕方5時ぐらいから泳ぎ始めて30分ぐらい泳ぎ、折り返して1時間ほど泳ごうと思ったのですが、海には海流があるということを計算に入れてなくて帰り道が1時間以上かかって息もたえだえになったこともありました。
 秋ともなれば保護者でもあり育友会長でもある笹村節雄さんがイカ釣りに誘ってくださいました。薄暮に霞む広い海原のまっただ中でイカ釣り仕掛けを垂らしていると、自然の中の人間がどれだけちっぽけかってことを思い知らされました。
 冬には浦浪さんといっしょに夜磯周りに行きました。ゴロゴロと転がっている大きなアワビやサザエを拾いながら、「こんなのは生まれて初めての体験だ」と子どものようにワクワクしたのを覚えています。

 学校生活もなかなか刺激的な毎日でした。

 端島学校にはチャイムがありません。近頃はやりの「ノーチャイム」とかいったものではなくて、単に校内放送施設が老朽化してしまい、使えないというだけなのですが。だけど二人の子ども相手の授業にチャイムなんて必要ありません。授業というものは、そもそもちょうど45分で終われるものではありません。「授業を45分にちょうど収められるのがプロだ」と言われたこともありますが、それは多くの児童、多くの学級が集団生活をするうえでやむからずのことだと思います。本来は子どもたちの理解度やペース、意欲などを見極めながら進めていければそれが一番なのだということが、この端島にいてよく分かりました。本校では古めかしい柱時計がチャイムの代わりです。40数年前の卒業記念品が今でも「リンゴーン、リンゴーン」とノスタルジックに時を刻んでいます。

 本校には給食がありません。児童も教師も昼休みには自宅へ昼食をとりに帰ります。この話をすると大抵の方は「えーっ」と驚かれるようです。私たちも当初は戸惑いましたが、今ではそんなペースにもすっかり慣れました。実際は、昼休みにも仕事があってわざわざ家に帰らないことが多いのですが、そんなとき校務員の浦浪さんが手料理を振る舞ってくださいます。おかげで私たちは昼間っから、とれたてのタイやアジの刺身、メバルの唐揚げ、カワハギの味噌汁、タコ飯など贅沢すぎるほどのご馳走を堪能することができました。校長先生が手ずからおいしい「うどん」や「ラーメン」などを作ってくださることもしばしばです。いつも大変恐縮しながらおいしくいただいております。

 ご馳走といえばこの端島に来て以来、島の方々にどれだけの新鮮な魚を差し入れていただいたことでしょう。大きなバケツいっぱいのマダイが届いたこともあります。港の近くを歩いていたら、
「よう、先生。これ持って行きぃ」
と大暴れしているタコをいただいたこともありました。1メートルを超える大きなハモを生まれて初めて見ました。おやつにどうぞとサザエがどっさり届いたときにはさすがに仰天しました。島にいるときは自宅の玄関に鍵をかけないのですが、帰宅すると玄関先に野菜やミカンがそっと置いてあることもありました。

 端島の人々はどちらかというと言葉数の少ない人ばかりです。そのぶん、飾り気のない「本物」の思いやりをいつも感じていました。




端島の子どもたち

 私は着任以前、高学年を連続して担任していました。前任校である通津小学校で6年生の卒業を見送った後すぐに、この端島で1年生を担任することになりました。私にとっては初めての低学年担任、若干の不安を抱いてたというのが正直なところでしたが…その不安は的中などといった生易しいものではありませんでした。

 端島には保育園や幼稚園といったものがありません。子どもたちが文字を読むという機会はそれまで皆無でした。近くに本屋や図書館があるわけでもありません。町中に看板が氾濫でもしていればそれを目にしながら覚えることもあるでしょうが、そういうこともありません。入学時点で子どもたちはひらがなを読むことはできませんでした。自分の名前を書くことができませんでした。10までの数を数えることができませんでした。
 これにはさて、どうしたものかと考え込んでしまいました。もちろんこれは子どもたちの能力的な問題ではありません。彼らには絶対的に「経験」が足りないのです。これからはいかにして多くの経験をさせていくかということが、本校における最重要課題となりました。
 子どもたちはがんばりました。歯を食いしばってがんばりました。本土の同年代の子どもに比べると、数倍以上の努力の量だったと思います。根が素直で真面目な子どもたちはみるみる力をつけていきました。お互い刺激し合う友達がいないため、私がわざと「大きな学校の子どもたちはもっとがんばっているぞ」とハッパをかけたこともあります。
 しかし実際のところ、彼らは本土の学校の子どもたちよりもはるかに大きな力をつけてきている。私はそう自負しています。

 この端島とこの子どもたちといつまでも一緒にいられたら。何度そんなことを考えたことでしょう。しかし、私自身この3年間で自分のすべての力を出し切り、すでに自らの引き出しがなくなってしまいつつあることを感じていました。無理をすれば4年目もいけたかもしれません。ですがまだ若輩の身、これ以上は子どもたちにとってプラスにならないと思いました。それでなくとも人との出会いが少ない島の子どもたちです。できるだけ多くの人、多くの先生に出会ってたくさんのことを吸収してほしい。世の中にはいろいろな見方・考え方があることを知ってほしいと思いました。
 この夏休みに子どもたちはテレビ局の取材を受けました。ちょうどそのとき私は長期旅行に出かけておりまして、あとでその事を知らされて驚きました。放映された子どもたちの様子を見たとき私は、この島での自分の役目もそろそろ終わりかなと感じました。子どもたちの様子は実に堂々としたものです。3年前は、知らない人の前に出ると固まってしまい、何も言えなくなっていたふたり。今ではきちんとした受け答えができるようになっています。

 子どもたちの成長を“客観的”に発見できたその日以来、私は彼らとの別れが近づくのを身にしみて感じるようになりました。
 それからはどの行事が終わった後も「ひょっとしたらこれが最後かもなぁ」とひとり寂しさを噛みしめていました。

 そして最後の一大行事、学習発表会を無事に終えたときは達成感・虚無感・充実感・寂寥感がないまぜになった複雑な気持ちで体中の力が抜けてしまいました。
 でも一番大きかったのはやっぱり「うれしい」という気持ちでした。海輝、侑季がひたむきにがんばる姿は、端島の人々に大きな感動を与えてくれます。これからもその明るさと真面目さが島の希望でありつつあることを心から願い、いつまでもエールを送り続けたいと思っています。




ふたりが私に贈ってくれた最後のメッセージ(離任式から)

 古屋先生。これまでどうもありがとうございました。
 前、ぼくたちは、古屋先生の家にとまりに行きました。そして、スペースワールドに行きました。いろいろな乗り物に初めて乗りました。たとえばジェットコースターです。古屋先生といっしょに一番前にすわりました。ちょっとこわかったです。おばけやしきにも行きました。一番こわかったです。出口から出てくると、ほっとしました。
 次に水族館に行きました。そこには、前に端島でも見たことがあるはりせんぼんがいました。かなり大きかったです。さわったらいたそうでした。
 このときはすごく楽しかったです。とてもいい思い出です。
 古屋先生、これからもがんばってください。
 それでは、さようなら。
海 輝  




 大好きな古屋先生へ
 先生をおこらせてしまったこともありますが、私にとっては大切な大切な先生でした。
 遠くの古頃などいろいろなところへつれていってくれましたね。楽しい思い出がたくさんできました。
 とくに心に残っているのはお楽しみ遠足です。あんなに楽しかったのに、もうこれでさいごだと思うと、さみしくなってきます。
 できれば、古屋先生たちといっしょに端島でお花見とかもしたかったです。
 これまで私たちをささえてくれて、どうもありがとうございました。
 これからも、古屋先生に教えてもらったことを思い出して、いっしょうけんめいがんばります。古屋先生も新しい学校で、体に気をつけてがんばってください。
 端島にもまた遊びに来てください。
 さようなら。
侑 季  



子どもたちに「本物」を見せたい

 島にいる子どもたちが「本物」にふれる機会はほとんどありません。たとえば社会科の教科書に出てくる商店街のお店も一つとしてこの島にはありません。それだけに彼らに「本物」を見せてあげるということはもっとも大切な教育です。

 島のみなさんの知識や技術は「生きる力」そのものです。海で生きていくための工夫、海の幸をおいしく食べる工夫、島に古くから残っている文化。本土の小学生がわざわざ社会見学に出かけていかなければ体験することのできない教材が、ここにはたくさんあります。
 一方で私は、子どもたちに最先端のIT技術を習得させようと努めました。これからは情報を上手に活用することも「生きる力」として求められるからです。インターネットの使い方、メールの送り方といった初歩的なことから、パソコンを使ったさらに高度な技術まで、私の持っている知識は全て見せました。
 もちろんこれらはすぐに身につくようなものではありません。今は彼らが少しでも興味を持ってくれれば十分です。彼らの中にある“記憶”がいつの日かよみがえり、「確かあんなことを先生がしていたっけ」なんて思ってくれて、今度は自分の力で追求するようになってくれればと思います。

 島の子どもたちに何かを伝えるため、「本物」を見せてやるためにはどうしたらいいだろうと考えたとき、私は「自己満足」が大事だと思いました。一般的に自己満足といえば、周囲のことも顧みず自分さえよければよいというような意味で使われますが、私の考える自己満足とは、自分の仕事に妥協をしないという意味です。余力を残して事に当たり、自分自身が満足できないような仕事が他人を満足させることなんてできっこありません。先生がまずこだわりを持つこと。よりよいもの、「本物」を追求しようとする姿勢を見せてやることが、これから多くのことを学んでいく子どもたちの一助となってくれればと願っています。



愛と海のあるところ

 「怪獣のバラード」という合唱曲をご存じでしょうか。今年度の学習発表会で子どもたち、教員、保護者がいっしょになって歌った歌です。この歌の中に「愛と海のあるところ」という一節があります。私は、これこそ端島そのものだと思いました。美しくおだやかな自然に囲まれ、人情のあつい瀬戸内の島。ここは私の夢が叶った場所です。

 私たちが岩国に帰るとき、子どもたちはいつも船着き場で見送ってくれます。私たちの乗った高速艇の船影が見えなくなるまで、いつまでもいつまでも手を振ってくれます。その姿を見るたびに私は、この子たちのためならどんなことでもやってあげよう。そんな思いに支えられてここまでがんばってこられました。



 今日、私はこの端島を去ります。子どもたちが手を振ってくれる最後の姿を見るとき、きっと私は涙を流さずにはいられないでしょう。



 子どもたちの笑顔を。端島の人々の優しさを。端島の美しい自然を。

 心に刻み込んで、この端島とお別れをしたいと思います。


《完》




最後になりましたが、

 今後とも、端島小学校に対しましてますますのご指導ご支援をお願い申し上げ、

お別れのご挨拶といたします。

 3年間、本当にありがとうございました。

 皆様、いつまでもお元気で。