この項は「忘れじの母校」の中の「郷土の生活・いまむかし」(亀田照雄氏)を参照しました。

漁業  網漁では、大正の中期から昭和30年代半ばまで、「いわし網」が大変盛んであった。明治の終わり頃から大正の初めにかけて「じこぎ網」、大正の初めから昭和10年頃にかけて「底引き網」も盛んであった。現在はそれぞれ不調となり、「立網」が中心。
 釣漁では、「ふかせ」「よだき」などが盛んであったが、現在では見られなくなった。
 この他に、「たこつぼ漁」があり、現在も盛ん。
定期船  島に初めて岩国行きの定期船が運航したのは、昭和24年に進水した岩国市営の岩国丸である。定員は50人ぐらいで船員は3人乗っていた。朝、柱島を出て端島、黒島を廻り新港へ行き、夕方、柱島へ帰港していた。食料の米、肥料なども一緒に積んでいた。
 昭和36年、岩国市営から防予汽船へと航路権が移り、松山行きの途中に寄港したり、大島久賀から出て三島を経由して岩国に行ったりしていた。しかし、昭和45年、高速艇になり、島との時間帯の折り合いがつかず、トラブルが続いた。結局、防予汽船から船を買い受け、柱島海運株式会社を設立、昭和51年から運行を開始した。
 昭和57年12月、新しい船になり、現在に至っている。
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海上タクシー  昔は「おしおろし」と言っていたようである。昭和の初め頃、大森氏、浦浪氏、牧野氏等が営業していた。その後、亀田照雄氏(きりしま)が、昭和26年、定期船岩国丸の代船として発足。
 昭和61年進水の「第3きりしま」が現在、活躍中。
救急艇  昭和46年、「みしま」は三島の救急患者輸送用として、岩国市から柱島地区に配置された。その後老朽化などで作り替え、現在は3隻目。端島から藤生国病まで30分で行ける。
 昭和に入って、牧野文次郎氏が酒、菓子店を、亀田ソミさん菓子店、中本泰助氏米、酒店、亀田新一氏酒店、亀田団平氏タバコ店、花井ヤエコさん菓子店というように店も何軒かあったが、現在は亀田正敏氏の酒店と亀田照雄氏の食料品、雑貨店のみが残っている。 こちらへ
電気  昭和31年、端島電気組合により自家発電による送電を始める。日没から3時間程度の送電一律40Wの定額料金で電灯以外は使用不可。冠婚葬祭などの時は、特別料金を支払えば延灯することができた。芝居や映画の時は家の点灯は消してくる申し合わせであった。
 昭和39年柱島より海底ケーブルにより中国電力を導入し、以後いろいろな電化製品が使用できるようになる。
水道  昭和44年、岩国市簡易水道として竣工。配水池(貯水タンク60トン)、濾過池、ポンプ室、取水池(井戸3ケ所打抜き1ケ所)とからなっている。
 普段はほとんど断水することはないが、正月、盆等急激に使用量が増すと一時的に不足することがある。